ラインホルトは、1757年(1758年生まれという説も多い)に
ウィーンで生まれた。
イエズス会などのカトリック系の学校に通い、当初はカトリックの司祭・哲学教師などを勤めていた。1783年に
ライプチヒに移り、新教徒に改め、
フリーメイソンの会員になる。この頃の彼は、旺盛していた啓蒙思想の影響や無神論・
ヒュームの懐疑論などの影響を受け、伝統的なカトリックからの脱却などをはかっていた。1784年には、ワイマールへ行き、そこで、ドイツの詩人
ヴィーラントを知る(後にヴィーラントの養子となる)。ヴィーラントが主宰していた当時ドイツで一番権力のあった文芸雑誌
Der Teutsche Merkur(ドイツ語でメルクリウスの意。メルクリウスはギリシア神話の
ヘルメスのことで、また
水星の意味もある)で後に「カント哲学についての書簡」(
Briefe ?ber die Kantische Philosophie)という名で知られる一連のカント哲学にたいする書簡をこの雑誌に投稿していた。1786年に発刊されたこの書簡は、当時あまりの受け入れられていなかったカント哲学に対する解説として受け入れられ、(この時点でいわゆるドイツ観念論の始まりと見てもよい)カント哲学がドイツの思想界に知られることとなる。この書簡の公表で、一躍有名になったラインホルトは1787年に
イェナ大学に招聘された。彼は、自身の哲学を何人にも疑い得ない人間の意識の命題となす、(Satz des Bewusstseins)すなわち表象能力においてカント哲学を統一させようとし、いわゆる「根元哲学」(Elementarphilosophie)を打ち立てた。
人間の1789年には主著になる『表象能力の新理論の試み』を刊行、これはカント哲学に含んでいた二元論的な問題(理論理性と実践理性)を一元化し、体系化しようとする最初の試みであった。この試みは、新しい哲学体系を打ち立てたというより、カント哲学に含んでいた問題を表面化させた功績が大きい。この一元化・体系化の試みによって、フィヒテ(ラインホルトの後任としてイェナに招聘された人物)の知識学の構想に直接的な影響を与えた事も見逃せない。1794年にイェナ大学を退官した後は
キール大学に招聘。1823年に没するまで当地で講義していた。後年のラインホルトはフィヒテやヤコービの影響を受けていた。