初戦は4歳を迎えた1976年1月31日、東京競馬場の新馬戦で迎えた。直前の調教では1600
mで1分45秒という当時の新馬としては破格のタイムを出し、素質馬として注目を集めていた
[平岡 p.65]。当日は1番人気に支持されると、
池上昌弘を鞍上にスタートから
逃げ切り、2着に3馬身差を付けて初戦勝利を挙げた。この競走には後にTTGの一角としてライバル関係となるグリーングラス(4着)と、後にミスターシービーを産む
シービークイン(5着)が出走しており、「伝説の新馬戦」としてしばしば語られる。続くつくし賞(2月22日)、れんげ賞(3月20日)もそれぞれ4、5馬身差で圧勝。同時期、関西では5戦5勝という成績を挙げていたテンポイントが
クラシックへの最有力馬と目されており、これに対してトウショウボーイは関東所属馬の筆頭格とされた。
当年の皐月賞は、4月18日に例年開催の
中山競馬場で施行される予定だったが、これが
春闘の最中に当たり、開催3日前に
厩務員組合と調教師会の交渉が決裂。組合側が
ストライキを宣言して開催は順延となり、翌週25日に東京競馬場で行われる運びとなった。これで調整に狂いが生じたテンポイント陣営に対し、トウショウボーイは順調に競走当日を迎えた。当日の1番人気はテンポイント、トウショウボーイは2番人気であったが、レースでは先行策から最後の直線半ばで抜け出すと、テンポイントに5馬身差を付けての圧勝を収めた。走破タイム2分1秒6は、同じく東京開催で行われた第34回競走(1974年)において、同父の
キタノカチドキが記録したタイムを0秒1更新するレースレコードであった。この卓越したスピード能力と、首を低く下げて走る独特の走法から、競走後にはマスコミから「天馬」との異名を付され、以後これが定着した
[『優駿』1989年3月号 p.19]。
皐月賞の圧勝を受け、
東京優駿(日本ダービー)当日は
単枠指定(シード)を受け、43%の単勝支持を受けた。レースでは逃げ戦法を採る馬がおらず、押し出されるように道中では先頭を走り、余裕のある手応えで最終コーナーを回った。しかし直線入り口の地点で、
クライムカイザー鞍上の
加賀武見が「馬体を併せられると怯む」というトウショウボーイの弱点を突き、その外側から進路を横切るように内側へ抜け出す。怯んだトウショウボーイは残り200m地点で4馬身の差を付けられ、態勢を立て直して追走するも届かず、1馬身半差の2着に終わった
[「併せられると怯む」という弱点は、競走前に池上が自ら報道陣に明かしていたものだった。([外部リンク] 『Yahooスポーツ競馬最強ヒストリー』第5話「天馬敗れる」)]。場内のファンには加賀の騎乗は進路妨害と映り、スタンドは一時騒然となった。しかし充分に間隔を取っての騎乗と認められ、加賀への制裁・戒告は行われなかった
[『日本ダービー十番勝負』 p.238]。