泰明尋常小学校、
学習院中等科を修了後、
華族の子弟は
学習院高等科にそのまま進学するのが通例だが、当時
旧制一高の校長であった
新渡戸稲造に感化され、一高を受験して進学。続いて東京帝国大学(戦後の
東京大学)で哲学を学んだが飽き足らず、高名な経済学者であり、当時急速に
マルクス経済学[政界に身を投じて以降は、日本は自国と同じ「もたざる国」であるドイツ・イタリアと同一歩調をとるべきと考え、天然資源を各国は平等に持つべきという社会主義的ないし唯物論的平等を持論として展開した。その一方で、西園寺や昭和天皇の主張する英米との協調外交に反対し、これらのスタンスが戦後A級戦犯として起訴される最大の要因になったとされている。]に傾倒しつつあった
河上肇に学ぶため、京都帝国大学(戦後の
京都大学)法学部に転学した。在学中の
1914年(
大正3年)には、
オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」との表題で第三次『
新思潮』大正三年五月号、六月号に発表したが、『新思潮』五月号は
発売頒布禁止処分となった
[『新思潮』五月号が発禁処分を受けたのは近衞の翻訳文が原因とするのが通説となっているが、中西寛が「近衛文麿「英米本位の平和主義を排す」論文の背景-普遍主義への対応」(『法學論叢』第132巻・第4-6号)で指摘しているように発禁理由が近衞の翻訳文によるという確たる証拠があるのかどうかはっきりしない。]。