当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、
602年(
推古天皇10年)に
日本における
陰陽道の
パイオニアとも言うべき存在となった
觀勒(観勒 かんろく)が
百済から来日し、
聖徳太子をはじめとして選ばれた34名の官僚に諸学を講じると我国の国政に大きな影響を与えるようになり、初めて日本において暦(
元嘉暦)が官暦として採用され、仏法や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために
607年(推古天皇15年)には先進文明国である随に向けて
遣隋使の派遣が始められたほか、聖徳太子の
十七条憲法や
冠位十二階の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。その後も、
朝廷は
遣隋使(後には
遣唐使)に
留学生を随行させたり、中国本土ないし寄港地の朝鮮半島西岸から多数の
僧侶ないし
学者を招聘して、さらなる知識吸収につとめた。諸学の導入が進むと、日本においては『日月
星辰の運行・位置を考え
相生相克の理による吉凶禍福を判じて未来を占い、人事百般の指針を得る』ことが重要であると考えられるようになり、吉凶を判断し行動規範を得るための方策として陰陽五行思想が重視されることとなった。