ヴィッテンベルクの教会は、当時ヨーロッパで最も豊富な
聖遺物コレクションがあった。それらは
ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)が収集したものだった。当時、聖遺物に対する崇敬は盛んで、見るだけで免償(罪の償いの義務を軽減すること)が得られたり、
煉獄での清めの期間を短くできると信じられていた。ルターの研究書を書いているマルティン・トロイ(Martin Treu)によれば、選帝侯は
1509年ごろ、「すでに5005もの聖遺物を収集していた。その中には
聖母マリアの母乳入りの瓶、イエスの生まれた飼い葉おけのわら、
ヘロデ大王による
幼児虐殺の被害者の完全な遺骨などがあった。このような遺物は通常、手の込んだ銀細工が施された保管容器に収められ、年一度公開されて参拝者を集めていた」という。1520年、選帝侯の聖遺物コレクションの数は19013にも達したという。人々は免償を得ようとこぞってヴィッテンベルクの教会を訪れ、その齎す功徳の総計は「人々が煉獄に入る期間を合計にして19万年も減らす」(トロイ)ほどのものだったという。
ヴィッテンベルクの教会の扉に論題が張られたのにはこのような経緯があったが、ルターが当時の教会の贖宥理解に疑問を抱いたのには、贖宥状販売で有名だった
ドミニコ会員の存在が大きかった。テッツェルは
教皇レオ10世と
マインツ大司教アルブレヒトのお墨付きを得て贖宥状を売り歩いていた。聖遺物展示による贖宥状売り上げが落ちることをおそれたフリードリヒ賢公と資産の流出を嫌ったザクセン公
ゲオルクの命により、領内での贖宥状の販売は禁止されていたが、人々はわざわざ他領へ赴いてテッツェルの贖宥状を求めるほどの人気ぶりだった。ルターのもとに告白に来る信徒たちも誇らしげに贖宥状を示し、自分にはもう罪の償いは必要ないと言い切るのを見てルターは複雑な気持ちになった。
更に論題が各地で急速に話題になったことから、ルターが論題を掲示するだけでなく各地に送付したという説もある。この説は研究者の中でも否定する声が少ない。というのも、たとえばマインツ大司教、教皇、ルターの友人たち、各地の大学などに送られたと考えるのは至極妥当なことだからである。1518年に入ると、論題は
ドイツ語等に翻訳された印刷物となって急速にヨーロッパ全土に広がった。